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橋本左内と幕末、福井藩
(2019年4月6・7日)

幕末、福井県が生んだ天才、橋本左内。
医者の子である彼は大阪の名医、緒方洪庵の適塾に学びます。
夜に塾を抜け出すと貧しい人たちを無償で往診する心優しい青年でした。
しかし黒船来航を機に、人生の方針を変えます。

医者にも種類がある。
小医・・・人の病気を治す
中医・・・医者をたくさん育てる
大医・・・国のおかしな点を直す
こう考えた彼は大医を目指します。

国の行く末を憂う青年、左内。
欧米列強は闘いでは勝つことができず攘夷は誤りであり、開国を急ぎ、各国の文化や技術を学ばなければならない。
日本が独立を保つためには満州や朝鮮半島を併合しないといけない。
(侵略戦争の発想はちょっと今の時代からは・・・ですが、当時のこと。西郷隆盛は死ぬ間際に左内の手紙を持っていたそうですが、彼の征韓論は左内の影響もあったのかもしれません)
今後、世界に盟主が現れ、各国同士が同盟を結ぶ時代になるだろうと
その後の明治時代から昭和への世界を予言するかのような言葉も残しています。この時代にこんな大局観でものを考える人がいたと思うと驚きます。
そして彼はいいます。
これからの日本は国を一つの家と考えて身分にかかわらず能力のあるものを登用しないといけないと。

左内の銅像は、彼の墓所がある福井市内の静かな公園の中にあります。

安政の大獄により26歳の若さでその身を散らした左内。
ちょうど墓所の桜も満開、やさしい光が差し込みすがすがしい空間で
なんとなく迎えられたような気持になりました。



この公園は実は福井の俳人 洞哉(とうさい)宅のあった場所。
奥の細道で芭蕉はここに宿をとりました。
洞哉の洞(とう)は桃青(とうせい:芭蕉の以前の俳号)と音が同じ
なのでもしかしたら名をとっているのかもしれません。
(和夢本編にも桃青の弟子、桃雪、桃翠などが登場します。
81話から91話の福島県那須での玉藻の前との闘い参照)

洞哉はとてもまずしい暮らしをしていて、ちょうと近くの寺院の建設現場から木片をもらってきて芭蕉の枕にしたそうです。
芭蕉は「わびさび」を美徳としていたように思います。
伊賀上野の釣月庵は芭蕉が伊賀での滞在をした小さな庵ですが、
人ひとり分のパーソナルスペースにそのまま屋根がついたような場所で感動したのを覚えています。
(和夢88話の後書きにも触れましてます)

芭蕉はこの洞哉の家を気に入ったのか、ここに2泊し、連れ立って敦賀へ向かっています。


下の写真は橋本佐内の生家跡です。

ここには左内が15歳の時にしるした啓発録の5つの項目が碑として残されています。
15歳にして己に戒めの書をしるし、それを死ぬまで守り通した左内。
・稚心を去る(子供のように甘える心を捨てる)
・気を振るう(人には負けない気持ちで己を奮い立たせる)
・立志(志を立ててそれに向かい努力する)
・勉学(ただ本を読むのはなく、真に知識とし心を鍛える)
・交友を択ぶ(相手のよいところを見習い、自分の欠点を直していける友人を持つ)

福井市内では学校の授業で生徒が各啓発録を書くそうで、福井県は学力が今でも高い県でもあります。





京都へ続く福井の出口。
ここにはひときわ立派な橋がかかっています。

橋には当時の絵が





歴史秘話ヒストリアで取り上げられたもう一人の天才、由利公正。
藩の借金を藩札発行と外国との貿易の合わせ技で一気にプラスに!
その改革の噂を聞きつけた坂本龍馬は彼の元を訪れた。
竜馬は新政府の財政担当には由利公正は欠かせないと、公正や福井藩の重役にも掛け合った。
明治維新には戊辰戦争という痛み(内線)が伴った。
新政府の戦費をまかなったのは由利公正によりつくられた太政官札(初の全国で通用する紙のお金)であった。


由利公正については
以前に歌いにいっていた飲み屋のマスターから
何度か話を聞いていた。
当時、公正は軟禁のような状態で、立会人同席にて竜馬と公正はこれからの日本について語り合った。
すると次第にその場にいた立会人がだんだんその話に引き込まれ、
この二人はすごいことを話しているのではないかと思い始め、最後には弟子入りを申し出る・・という話。
何度聞いてもすがすがしい話です。

その場所はおそらく下の写真、竜馬が宿泊した莨屋旅館だと思われます。
そのマスターの話を思い出すとなぜか桜の映像が浮かびます。
今回の旅のタイミングはそんなイメージからなんとなくこうなりました。
ちなみにこの旅の覚え書きを書いているのは5月26日ですが、マスターの命日は3日前の23日です。



公正の家の跡は今は足羽川の中にあたるようです。





福井市内にはさくら通りという道も。本当、桜三昧でした。


博物館の前には松平春嶽公の銅像が。
橋本左内や由利公正らが活躍できたのはそれを引き上げる藩主、名君がいたからこそ。
幕末の四賢候にも数えられます。


由利公正と横井小楠の像。
横井小楠は熊本藩士ですが、その開明的な考えが藩内で受け入れられず、春嶽によって福井藩に招かれました。
坂本龍馬は熊本へこの横井小楠に会いに行っています。





博物館の横にある庭園。
旧松平家の別邸ですが、規模・大きさ的に好きな庭園です。
ここにはちょっと気になる石がありました。

下の写真の石。船着き場のような不思議な石。
視界を邪魔せず、しかし抜群の存在感を発揮する、いやむしろ視線を水面へといざなうかのような不思議な石。


慕妙にたわんだような石橋。すいめんすれすれでこの石の下を水がくぐり抜けていくかのよう。



かっこいい形の石。
機械の部品の金属のような形だ。
そう、ここ庭園 養浩館庭園 ここで声をかけられて振り返ると北ノ庄城跡で説明を受けたボランティアガイドさんがいらしていました。
この日、午前中は北ノ庄城跡、そして午後はこの養浩館庭園でボランティアをされていたそうです。

下は福井神社の松平春嶽像です。



この日。
ダイジェストですが、幕末の福井藩の激動を感じることができました。
命を最大限に輝かせた先人たち。
気合いを入れられました。

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