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久留米散歩(2017年3月19日、20日) | |||
久留米というと思い浮かぶのは有名芸能人を輩出していることそして、ブリジストンと東芝の創業者の出身地であること。 そんな街の空気を肌で感じるためにやってきました。 西鉄の駅を降りるとホテルに荷物を預け、いざ出陣。 フロントの女性にでおすすめのグルメを訊いてみるとメチャメチャノリが良くて最大限のジェスチャーで説明してくれました。 駅の観光案内所で無料の地図を入手、ここでマンガを描いていることなどを話して和夢カードでPR、ちゃっかり宣伝しました。 神社の鳥居を目印にしてたどり着くのが有名な久留米ラーメンのお店。45分待ち・・・ということですが、せっかくなので並んでいただきました。 そしてこの神社は来てよかった。 東芝の創業者、田中久重。またの名をからくり儀右衛門(ぎえもん)。 天才からくり人形師である彼はここ五穀神社の祭礼で制作したからくりなどのあたらしい仕掛けで評判を呼んだそう。 彼が20歳~30代前半の頃のことらしい。 儀右衛門の作品はどれも素晴らしいものばかり。 弓を射る人形は3本の矢を自らつかんで弓につがえ、 まず1本目を的に当て、2本目はわざと外して頭をがっくりと落とし、3本目をまた的に当てる。観客をワクワクさせるストーリー、エンターテイナーでもある。 本当に天才だ! 今、東芝はアメリカでの原発投資の失敗で危機を迎えているようだけれど、頑張ってほしいと切に願う。 以前、ニューヨークへ行ったときに空港からのシャトルバスから見えたTOSHIBAのネオンサインにはなんとなく日本人としてワクワクしたのをよく覚えている。 この五穀神社にはブリジストンの功績のあった方など地元有志の銅像が建てられていました。 境内には2組の母子を見かけただけ。 しずかな空間だった。 今回の旅の目的は石橋美術館(今は名前が変わって久留米市美術館)へ行くこと。 石橋さんはブリジストンの創業者、石と橋、英語で言うと ストーンとブリッジ、これがそのままブリジストンの名前となっていてまさにブリジストンの力でできた美術館。 今は亡くなったけれど、職場で広告とは?自分のレベルを上げるためには?などアドバイスをいただいた先輩から一度行ってみたら?と進められていた場所。 東京駅の近くのブリジストン美術館は行ったことがあるのだけれど、本家の久留米にようやく今回いくことができました。 日曜美術館でみた吉田博展、日本より海外で認められ有名になった画家、版画家。この展示会をきっかけとして来てみることとしました。 写真の絵は剣岳(つるぎだけ)。和夢という槍の話を描いている身としてもぜひ行きたい背中のスイッチを押されました。 入口で出迎えてくれるのがミロのビーナスのレプリカです。 腕がないがゆえにどのような腕なのかと想像力を掻き立てる未完成の美。 石橋美術館は石橋文化センターの中の一つの施設。 裏には庭園が広がっています。 この日はピアノとバイオリンの庭園コンサートをやっていました。 観光案内所のお姉さんに教えていただいた話だと久留米の椿園がちょうど見ごろとのこと、しかし時間的に足を延ばすのは難しいと判断。その代り石橋センターの中にもかなりの椿が植えられていて、ここで椿を堪能、何枚もシャッターを切りました。 椿は木編に春と書きますが、ちょうど和夢も春の話。 ぜひ椿って名前を使いたいと考えて、第49話のすずしろで 椿ばあさんと鰆じいさんとして登場していただきました。 鰆(さわら)は岡山が有名なんだけど、以前岡山で飲み歩きをしたときに入った寿司屋さんで食べた鰆がとてもおいしかった。鰆の皮をあぶってそれで鰆を巻いた寿司とかも出していただきました。(ただし調子に乗って食べてなんと一人で2万円も支払うことになってしまったのですが・・・。) 庭園内には久留米出身の画家、坂本繁二郎のアトリエが移築されています。この日はちょうど中に入ることもできました。 光をしっかり取り込めるデザインがいい雰囲気です。 歩き疲れた後は、庭園内で大宰府名物、梅ヶ枝餅を買ってホテルへ持ち帰り、おいしく平らげました。 そしてホテルでしばらく休憩。 体力の回復を待って夜の街へ繰り出しました。 久留米の街は以前に飲み歩きをしたことがあったので軽く飲むつもりで出陣。 久留米というと焼き鳥ということなのでいろいろと焼き鳥屋を物色した後、一軒のお店へ入ってみました。 地元の常連さんでにぎわうお店。 店主や給仕の女性、カウンターのカップルなど店員さん、お客さんみな気さくで「広島から来た」ってこともあり、どんどん話しかけていただき、さらに隣のカップルからは日本酒もおごっていただきました。やっぱこういう出会いがあるから旅はやめられない。久留米の変わった串焼きも楽しみ、良い気分で店を後にしました。そしてガールズバーでBLUE ENCOUNTさんの歌など歌い気持ちよくタクシーでホテルへ。 運転手さんの話だと久留米は商業の街、ブリジストンやムーンスター、アサヒシューズなどのゴム産業が大きいようです。 時刻は1時。昔は朝まで飲んでも平気だったけど、すぐ爆睡。 二日目、日曜日。 ホテルで朝食をすますと駅前でバスを待ち向かったのが久留米城址。 城址といっても残っているのは石垣だけでした。 バスセンターで「何行きのバスに乗ったら久留米城址に行けますか」と聞いても最初に聞いた人はわからない様子で、横にいた別の少し年配のスタッフさんがなんとか知っていたという様子。もちろん観光客がバリバリ来るようなところではないようですが、マニアックな場所のようです。 思い出したのは島根県の松江と鳥取県の米子を旅した時の事。 県は違えど、この二つの街は中海を挟んで対岸に位置し、JRの駅でその二つの間には3駅しかなく、とても近い。 それぞれの城、松江城と米子城が対照的で面白かった。 松江は当時、「松江城を国宝に」という看板を大きく掲げていた。逆に米子は石垣を残すのみで城は安く払い下げられ風呂の薪などに使われたとか。(松江城は今年国宝に指定されました。) これは推測なのですが、松江は徳川家康父方の性である松平が治めていた街、中でも松平不昧公はお茶好きで今でも松江にお茶文化が根付いている。 殿様に対しての敬愛が息づいている街で、城に対しての憧憬が強い町といえるのでは。 対して米子は廃藩となったのち池田氏の所領であったけれど、この城に入ったのは家老であり、殿様の代わりに家老が治めた城で、街の人は殿様の顔も知らないし、縁の遠い人。 そして文化や伝統を重んじる松江に対して米子は商売の街でどちらかというと自由な気質である。 だから城にも思い入れは少なく売り下げるっという感じだったのでは? そう考えると久留米も商業都市(タクシー運ちゃんの話だと) であり、文化より利益を重視する気質があるのかもしれないなどと考えさせられた。 城址には神社が。 再びバスに乗ろうと思ったが便がない。 時間がもったいないので歩くことにした。 重い荷物を担ぎながら歩く。 すると目の前に現れたのがブリジストン通り。 この道は駅前へと続いているようだ。 並木が整備された道。 左手の学校のグランドからは部活の軽快な声。 そして右からは時折、独特の匂いが風に巻かれて鼻をくすぐる。 ゴムの匂いだ。 大きなブリジストンの工場が広がっていた。 今も石橋さんの遺伝子は息づいている。 石橋さんの発想は織田信長と似ていると思う。 っと言ったらあきれられるだろうか。 二人の共通点は履物革命・・・です。 織田信長は千利休が雨で足を滑らした際に、西洋の靴を進めたそう。しかしそれを千利休が断ったので、草履の裏に靴と同じような滑り止めの皮をはったものを与えたのが雪駄の始まりとか・・・。千利休がはけば広まるか・・・ 対してブリジストンの石橋さん。 石橋文化センター内の石橋正二郎記念館にその足跡が展示されているのですが。 彼はまず当時サイズごとに金額が異なっていた足袋(たび)の金額を統一しました。 今なら当たり前だけれどかつては25cmの足袋と27cmの足袋では金額が違っていたのです。(cmではなくて文ですが) そしてさらに足袋の裏に滑りどめのゴムをつけました。 これを地下足袋と名付け販売したところ、九州の炭鉱労働者をはじめとして日本中にプレーク。記念館には広告も展示されていて上手に広告も駆使していたこともわかります。 そして九州で最初の自動車を購入した彼はこれからの時代を見据えて国産のタイヤを手掛けることになるわけです。 二人の足跡(まさに足の跡・・・)を辿ると 雪駄と地下足袋ってなんとなく似てないですか。。。 信長の生まれ変わりを石橋正二郎としてマンガを描いたりして、「ここには馬はおらんのか」といいながら自動車を乗りまわす様子が目に浮かびます。 そんなことを考えているとJRの久留米駅に到着。 石橋文化センターは石橋さんが地元久留米のために図書館や文化ホール、美術館などを設立したもの。 今は久留米市のものだったりしてももともとは私設の設備でした。 対して東芝創業者の田中久重(儀右衛門)さんについては記念館などはありませんでした。 でもこれが逆に久留米気質なのかも・・・ 米子のような自由な気質、飲み屋でもすぐに声をかけてくれるあったかい気質。 そう考えているとJRの駅前に大きなモニュメントが。 JRの駅前には世界一のタイヤと 巨大なからくり時計。 そして久留米出身の画家、青木繁と坂口繁二郎のおおきな作品を切り取った壁画がありました。 これもある意味では私設かもしれませんが、久留米の遺伝子がここに刻まれていました。 20170617アップ BY 〇C+ |
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